デュ・バリー伯爵夫人 ~『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』より

『王たちのセックス 王に愛された女たちの歴史』 

エレノア・ハーマン(著) 高木玲(訳) KKベストセラーズ

  
 
こちらが表紙になっています。
一見「誰?」という感じですが、

『ルイ15世とデュ・バリー夫人』 ジュラ・ベンツール 1874年

ルイ15世とデュ・バリー夫人』 ジュラ・ベンツール 1874年
まず、えー、ルイ15世に見えなーい、と思いました。
デュ・バリー夫人にも見えない。
ルイ15世の時代からほぼ100年後、19世紀に描かれた王とその寵姫です。 
 
  
ポンパドゥール夫人亡き後、ルイ15世の寵姫となったデュ・バリー伯爵夫人(1745年8月1日-1793年12月7日)は、本名をマリ=ジャンヌ・ベキューと言います。
 
貧しい家庭の生まれで、お針子をしている時、デュ・バリーと知り合って囲われ、彼の弟と形だけの結婚。
貴族の身分を手に入れ、宮廷に入ります。

『フローラに扮したデュ・バリー伯爵夫人』 フランソワ=ユベール・ドルーエ  1769年 ヴェルサイユ宮

『フローラに扮したデュ・バリー伯爵夫人』 フランソワ=ユベール・ドルーエ  1769年 ヴェルサイユ

1769年のデュ・バリー夫人の肖像画です。
前任のポンパドゥール夫人には知性では及ばなかったと言いますが、「美しさでは勝っていた」と本書にあります。
 

宮廷に居並ぶ美女は多いが、その中でも夫人は最高の美女に数えられよう。姿かたちに欠けたところは一つもなく、じつに魅力的だった。しばしば髪粉を使わずに、見事な金色の髪を自然なままにしていた。髪はふさふさとしていて、どう結ってよいやら自分でもわからないようだった。大きな青い瞳でまっすぐに見つめ、会う人をとりこにしてしまう。鼻はじつに小さく、肌は目を見張るほど清らかだった。…

 

とは、彼女の元に嘆願に訪れた若い士官の証言です(P70)
 

デュ・バリー夫人の胸像 オーガスティン・パジュー作

デュ・バリー夫人の胸像 オーガスティン・パジュー作

 デュ・バリー夫人の胸像_ Dorieo _ CC-BY-SA 4.0

 
当時、天然痘の為にほとんどの人の肌にあばたがありました。
しかし彼女にあばたはなく、また、若い女性の多くが歯を失っていたにも関わらず、「デュ・バリー夫人が笑うと、真珠のような歯が二列覗いた」そうです。
 
そして、身体を清潔に保つ、お手入れ。
宮廷貴族も大層不潔なこの時代、かなり「特異」な習慣だったようですが、
 

女性たちは複雑に結い上げた髪のなかへ櫛を突っ込んで汚れをこそげ落とした。油ぎった頭皮にシラミがわくと、かゆくてたまらないからだ。それに対してデュ・バリー夫人には、汚れも、臭いも、ノミもシラミも無縁だった。夫人は週に何度もバラの香りの風呂を浴びていた。

 

彼女が宮廷に入った時、彼女が無様に失敗する様子を見物すべく、大広間には多くの貴族が押し寄せたと言います。
しかし、彼女が姿を現すと、
 

そのあまりの美しさに、最も容赦ない敵でさえ思わず息をのんだ。10万リーヴル相当のダイヤモンドで身を飾り、金糸・銀糸を織り込んだドレスの裾は大きく膨らんでいる。宮廷風に膝を屈めて三度お辞儀をするとき、また後ろに下がるとき、デュ・バリー夫人は巧みな足さばきで長い裳裾を脇へはらった。貧民あがりの無様な小娘を期待していた者たちは皆失望した。デュ・バリー夫人の姿は上品でエレガントだった。古い家柄を誇る貴婦人たちと比べても、なんら遜色なかった。(P255)

 
その後の、公妾・寵姫の存在を憎むマリー・アントワネットとの女の闘い、天然痘に罹患したルイ15世崩御
ヴェルサイユを追放され、修道院に送られた彼女でしたが、「デュ・バリー夫人は共同生活にも慣れ、喜んで仕事を引き受け、ミサの時間もきちんと守った」(P294)とあり、最初はあまり好意的でなかった修道女たちの考えが変わって行く件では、「このひと、そんなにイヤなひとではなかったのでは…」との印象を強くします。
 
昔読んだ『ベルばら』では、マリー・アントワネットの側に思い入れるあまり(?)、デュ・バリー夫人に対していい印象は持っていませんでした。
せっかくイギリスに渡り難を逃れたのに、革命の嵐が吹き荒れるフランスへ舞い戻るなど、その行為から、ちょっと能天気な「愚かな女」という見方をしていました。
 
ベッドで王を悦ばせるだけでなく、その明るく人好きのする性格で王を憂鬱から救い、室内を王の好きな花々で埋め尽くし、曲芸師や道化師を招き、オペレッタを上演させる。
 

夫人の母親は多くの貴族の館で料理女として働いた経験があった。高慢な廷臣たちはそのことを悪く言ったが、デュ・バリー夫人は愛する王の美食に飽きた胃袋を、母親に推薦してもらった数々の素晴らしい料理で驚かせた。(P71)

 

著者はデュ・バリー夫人を、「愉快な子どもで、天才的な娼婦で、優しい母だった」と書いています。ルイ15世にとっては、最高の女性であったのでしょう。
 
さて、イギリスに渡った彼女が、危険なフランスに戻って来たのは、革命を甘く考えていた「呑気な愚かさ」?
隠していた宝石類を取りに?
 
以下は肖像画エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランによる、デュ・バリー夫人の肖像画です。
 

デュ・バリー夫人 1781年 フィラデルフィア美術館蔵

1781年 フィラデルフィア美術館蔵

 

デュ・バリー夫人 1782年 コーコラン美術館蔵 頭に羽根飾り

1782年 コーコラン美術館蔵

デュ・バリー夫人 1789年 個人蔵

1789年 個人蔵
 
『図説 ヨーロッパ 宮廷の愛人たち』河出書房新社のなかで、著者・石井美樹子氏は、
上の二点について、「二点とも、夫人のパトロンのド・ブリサック元帥の依頼で描いた」(P54)と仰っています。
 
革命で元帥は逮捕、パリの街中で惨殺され、まもなくデュ・バリー夫人も逮捕されて投獄されます。
そして1793年、ギロチンにて処刑。
断頭台を前に取り乱し、泣き叫んだと言われています。
低い身分から美貌を武器に、国王の伴侶にまでなった彼女。あのままイギリスに留まっていれば、命までは落とさなかったかもしれないのに。
氏の言葉を借りれば、正に「栄華と悲惨を極めた生涯」だったと言えるでしょう。
 
 
 
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