チョコレート・ショップ 「狼の帝国」

「狼の帝国」
 
ジャン=クリストフ・グランジェ 高岡真訳 創元推理文庫
 
 まず、映画『クリムゾン・リバー』。
 前半は結構面白く観ていたのですが、後半から「?」となる部分があり、疑問解消のために原作を読んでみました。
 そうしたら、これが思った以上に面白く、作者であるグランジェの他の作品も読んでみたくなりました。
 
 そして、本書。
 
 高級官僚を夫に持つアンナの記憶障害から物語が始まります。
 記憶喪失ものなら『ボーン・アイデンティティー』、植え付けられた記憶なら『トータルリコール』が浮かびますが、この「失った記憶または顔」を追う道行きは、この二つの映画よりも暴力や恐怖に満ちています。
 大胆なストーリー展開で、トルコ人女性の連続殺人とアンナの記憶障害がリンクするあたりは結構好きな部分。偶然にしては出来すぎでは、と思える箇所もキニシナイ。最後まで一気に引っ張っていきます。
 
 映画は映画でそれなりに良さはあるのですが、この原作と比較してしまうと、やっぱり何か温い感じが否めません。
 タイトルの「エンパイア・オブ・ザ・ウルフからして、もー既に別物。
フランス語や日本語を英語に置き換えただけなのに、なんか安い感じが漂ってしまいました。「狼の帝国」のタイトルのままで良いと思うのに。
 ま、「クリムゾンリバー」同様、映画は後半以降ほぼ別もんだから、いっか。
 
 ネルトー警部はハンサムさんの設定なので、俳優さんは、まあ、合っているかな。
 主演の女優さんも、エキゾチックな印象で、良いと思います。
 女医さん役も素敵でした。アンナの心に残るマチルドの赤い唇がどんなふうなのか、とても興味がありました。フランスの女優さんて、どうしてあんなに美しく年を重ねることが出来るのでしょうか。
 
 でも、ジャン・レノが悪徳警官のシフェールって…(・・?)…なんか合わない…。
 ホントは善い人、にしか見えない…。
 結局最後は助けてくれそうな人にしか見えない…。
 どうしてもレオンにしか見えない…。
 
 原作のシフェール、結構嫌いじゃありません。
 悪いやつなんだけれど、その一方でネルトー警部に持つ「親」的な同情心が、人物像に深味を添えている気がします。体制、または大きな勢力に反抗する気概が見え隠れするような。
 シフェールが最初からワル善人に見えてしまうのは、私がジャン・レノをとっても好きだからでしょうか…。
 
  原作では印象に残るシーンなのに、映画ではさらっと終わったチョコレート・ショップのシーン。
 愛する夫が赤の他人に見えるのに、アンナが勤めるチョコレート・ショップに定期的にやってきては、チョコレートを買い求める男性には何故か見覚えがある。たしかに会ったことがある-しかし向こうは私に気付かない。
 
 なーんて読むと、ついロマンスな方向を想像してしまいましたが、違いました。
 その男は週に二、三度やって来て、同じチョコレート「ジコラ」を買って行きます。
 「アーモンド・クリームの入った四角いチョコレートで、中東のお菓子に似ている」ジコラ。
 お値段は200グラムで10ユーロ50から11ユーロです。
 
 後の彼の言葉で、イスタンブールでは、カカオをまぶしたアーモンドペーストを買うのだということがわかります。「ベイオールの菓子屋の特製」なんだそうです。美味しそうですねえ。
 
 
 物語の前半で、アンナの勤め先のチョコレート・ショップの様子が描かれます。
 フォーブル=サン=トノレ通りにあり、「店全体が、まるで大きなチョコレートの箱だ」。
ご近所さんには《マリアージュ・フレール》紅茶店と、レストラン《ラ・マレ》。
 
 そこではジコラ以外に「ロメオと呼ばれる四角いコーヒー・ムース」や、編んだかごに載った、チョコレートで作った卵や鶏などの「復活祭のディスプレイ」が登場します。
 チョコレート好きの私はじっくりと読んでしまいますが、読み飛ばしても、物語の筋にはあまり関係ない箇所ではあります。
 でも、こうしたありふれた「日常」があるから、アンナが巻き込まれていく暗黒の非日常が浮かび上がってくるのだと思います。
 いずれ記憶障害の原因が何なのか判ったとしても、アンナがチョコレート・ショップに勤めさえしなければ、〈ムッシュー・コーデュロイ〉と出会わずに済んだかも知れません…。